震災から 2か月が経とうとしています


早いもので、未曾有の震災から 2か月が経とうとしています。

悪い夢を見ているような呆然自失の数日間を経て、否応もない現実として向き合った2カ月。

本当にあっという間でした。

2か月たって、やっとあの日の事を振り返る事が出来るようになりました。

地震当日(11日)は 市内中心部の仕事先で 打ち合わせ中でした。

今までに経験した事のないような激しい揺れが収まって、1人でいる母が心配で慌てて家に向かうものの、
いつもなら車で30分の道のりが 大渋滞で 4時間半かかってやっとたどりつきました。


途中 よく行っていたレストランが 看板だけを残して 跡形もなく崩れていたのを見て、
本当に大変な事が起きたんだと実感しました。

それまで晴れていたのに、急に雪が激しく吹雪いて 一面真っ白になり、
このまま 地球が終わってしまうのではないかとさえ思いました。

停電で真っ暗になった街中に 延々と続く、車の赤いテールランプがとても印象的でした。


その夜は、家の玄関先にとめた車の中で 82歳の母と二人で 余震の度に悲鳴をあげながら
まんじりともしないで一晩を過ごしました。

ラジオが伝える 「海岸に 200~300人の遺体が打ち上げられた」 という内容が 
どういう意味なのか この時はまだ理解できませんでした。


同じ市内にいる妹夫婦と会えたのは 次の日(12日)の朝でした。


自分の事務所に行って、あらためて室内の惨状に息をのみ、出先で良かった、 
事務所にいたら、机や本棚に押しつぶされていたか、恐怖で心臓が止まっていたと思いながら
ノートパソコンなど 貴重品だけを持ち出して事務所を後にしました。

自宅は壁に大きな亀裂が何本も入っていて 余震のたびに怖いので 
その日から市内の妹夫婦のマンションに避難。

中心部は夜電気が復旧。通り一つを境にしてこちら側は暗やみの街。

マンションの7階から、明るい街中に向かって「もっと光を!!」と言って、みんなで少し笑いました。

夜中になって 東京にいる娘と やっとメールがつながり一安心。

皆さんが送ってくださっていた、沢山のメールもやっと受信できて お返事におおわらわ。

電気もガスも水道もない中、懐中電灯の明かりを頼りに 
家族4人身を寄せ合って 布団で眠れることのありがたさをかみしめました。

 
3日目(13日) 事務所の片付けに8階まで階段を上り、日頃の運動不足を痛感。
同じフロアの人達との再会に、お互いの無事を抱き合って喜びました。

丸一日かけて原状復帰。またおおきな余震が来る事を想定して、
高い所の物はすべて下におろして帰宅しました。


妹夫婦は水の配給に2時間半行列。

この夜、妹夫婦のマンションも電気が復旧。電気がついた瞬間みんなで思わず拍手をしました。

しかし それもつかの間、テレビに映し出される映像のあまりの悲惨さに、
地震以来はじめて声をあげて泣きました。


一番情報を知らなかったのは、私たち地元の人間でした。


4日目(14日) 朝9時からガソリンを入れるために 並びました。

5時間半並んで、あと4台で自分の番と言う所で、ガソリンが品切れになり、車をその場に置いたまま帰宅。

このあたりから 福島原発があやしい事になりはじめて
「これから降る雨には放射能が含まれているから、絶対にぬれないように」という 
チェーンメールが、夜中中飛び交いました。


5日目(15日) 早起きをして車に戻り ガソリンを待つものの、その日は結局スタンドが開かず、
またもや空振り。

あまり家を留守にも出来ないので、4日ぶりに帰宅。

足の踏み場もないほどの家の中に、はてさてどこから片付けたらいいものかと、しばらく途方にくれました。 

放射能が心配なのと ガソリンが心もとなくなったため それからしばらくは外出を控え、
散乱した部屋の片づけに専念しました。

どこにもぶつけようのないやりきれなさを、家中の片付けに没頭することで、紛らわせていたように思います。


私の住む所は、3月15日の夜に電気が、17日の午後に水道が4月4日にガスがそれぞれ復旧しました。

食料は 母が日頃から色々な食材をストックしておいてくれたおかげで、買い出しの行列に一度も並ばずにすみました。

戦時中の食糧難の経験が、こんなところで役に立つなんて・・・と母自身も苦笑いしていました。


ガラス越しに柔らかな陽が差し込む部屋の中にいると、一瞬 現実を忘れてしまいそうになりますが、

一旦テレビをつけると、どのチャンネルもあの光景が映し出されていて、一気に現実にひきもどされてしまいます。


ああ、やっぱりこれは夢ではなく、本当におきてしまった現実なんだと。


それでも日ごとに普通の番組も放送されるようになって、なんだか 少しホッとしているのも事実です。

おしよせる津波の映像も、被災地のがれきの山も、家族の安否を気遣う悲痛な叫びも、
辛すぎて、出来ればもう目にしたくないのです。

でもそれは、無傷で助かったから言える贅沢ですね。


今年の3月は、朗読会や講演会、カレッジの講師など 新しい仕事の依頼を沢山頂いていて、
嬉しい悲鳴を上げながらも 準備を整え さあこれから!!と 張り切っていた矢先でした。


それらの仕事は、残念ながら すべてキャンセルのなってしまいました。
でも、命が助かっただけありがたいと思わなければなりませんね。

お陰様で、ステージ・アップのメンバーも、全員無事でした。

もちろん、それぞれに大変な思いをして、この2カ月を過ごしてきたと思いますが、
取り敢えず、命は助かりました。有難い事です。神様に感謝です。


メンバーと相談した結果 今年8月に予定していた ステージ・アップの朗読会は一旦白紙に戻し、
今私たちに出来る事を考え、避難所にいる方達のために 朗読をしに行こうということになっています。


新幹線もやっと復旧したので、東京での活動も再開出来そうです。

皆様にまた笑顔でお目にかかれる事を楽しみにして 頑張りたいと思います。


お見舞いのメールやお電話 支援物資を送って下さった 沢山の皆様にお礼を申し上げます。

本当にありがとうございました。


そして最後になりましたが、この度の震災で被害を受けられた皆様に、心からのお見舞いを申し上げますとともに
尊い命を落とされた多くの方々のご冥福を、心からお祈り致します。


生かされた命を大切に 前を向いて進んでいこうと思います。

長野淳子